読書「スナップショットは日記か?」大竹昭子さん著
こんにちは。世田谷の撮影スタジオ「 Studio Heartbeat 」代表チカザワです。
本日は、読書。タイトルは「スナップショットは日記か?」大竹昭子さん著
こちら、大御所の森山大道さんの作家活動を軸に、スナップショットという撮影技法は文としての「日記」と比較になるものか、という問いを投げかける、短編の小冊子。
詳細をここでグダグダと書くのはネタバレというか、本の価値を損ねることになるので控えますが、読んだ上での感想を少々。
まず前提として考えないといけないのは、「スナップ写真」という撮影ジャンルが、誰の、なんの目的のために撮っているかということ。自分にみたいにSNSを中心にクレジットすら入れずにアップするのを日課にしているような暇人もいますが、そもそもの話、「街を適当にうろついて、目についたものを写真に収める」という行為になんの価値があるのかということ。
自分もお仕事の上での撮影となると「目的」を明確にしたうえで、クライアントの最大限の利益になるように脳みそも学んだ技術もフル活用するのですが、プライベートで撮る写真にクライアントがいるわけでなく、目的があるわけでなく。
そう考えると「自分は、なんのためにこんな重い機械をぶら下げて、仕事でもないのに写真撮ってるのだろう?」と希に思うこともあったのですが、それがどうにも止められない。
そんな昔からの疑問に対する答えのヒントが、この本の要所要所に散りばめられていました。
まあ、せっかくの本の核心部分をこんな場所でネタバレするのも勿体無いので、1番共感した部分を掻い摘んで大事な部分として記憶するとなると
「カメラを媒介して世界とつながる手段」
ということでしょうか。別に、撮った写真をSNSに載せるだとか、写真展を開くだとか、そう言った「撮った後の写真を使って云々」ではなく、ファインダー越しに(最近はファインダー覗かないこと多いですが…)自分と今、目の前に広がっている物事との繋がりを実感できるということ。
撮った写真を片っ端から消して1カットも残さない変態はいないので、デジタルであろうがプリントであろうがネガであろうが、形としては残るし、結局それは日記として機能するので、という結論。
そうなると、確かにスナップカットは「日記」なんですよね。
スマホ写真やSNSの普及で、写真も写真日記も万人に馴染みのあるものとなっていますが、自分みたいに写真を撮ることを生きるための手段としている人間には、ときに変な方向に悩むこともあるので、こういった本なんかでヒントを得ながら学んでいくことも重要かな、と今回の読書で実感しました。
写真は、現在絶賛工事中の自宅裏の元アパートの瓦礫。
こんな風になかなか見慣れない景色も、じっくり眺めていると色々と考えてしまいます。元の姿を思い出したら、これからどんな新しい建物が建つのか、など。
これも、写真を撮るためにカメラを向けている時点で過去と今と未来を繋いでいた記録として、日記になるのでしょうか。
Studio Heartbeat 近澤幸司 -チカザワコウジ- 個人作品サイト
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